※一周年を記念して富士山と一緒に
みなさま、こんにちは! 越智です!2018年10月1日をもちまして、OCHI企画は無事1周年を迎えることができました。PHP研究所を卒業し、即席作りのカヌーで大海に漕ぎ出した私を、多くの方に導いていただきました。改めて心より御礼申し上げます。ありがとうございます!
さて、1周年を機に今までの人生を振り返ってみました。何回かに分けて配信していきますので、よかったらご覧ください(^ ^)
第1回は、PHP研究所との出会いについてです。
私は1970年、愛媛県今治市にて4人兄妹の長男として生まれました。母子家庭状態でしたので、経済的にはかなり厳しい状況にありました。引っ越しを繰り返し、高校3年時には、5人で2Kのアパートに暮らしていました。あまりに家が狭いため小さなテレビは小さな押入れの中にあり、両親が別居してからは、お腹いっぱい食べた記憶はほぼありません。育ち盛りにも関わらずいつもお腹を空かしていました。(それが原因かどうかわかりませんが、貧血検査にはよく引っかかりましたね。笑)
自分に続く兄妹たちのことを考えると、「大学はお金のかからない国公立しかない」と地元の愛媛大学を目指します。しかし、センター試験に失敗。隣県の大分大学に進学することになりました。
折角入ったにもかかわらず、大学へはほとんど行った記憶はありません。自分ではどうしようもない経済的困窮の中で暮らしていた高校までと比べ、アルバイトをすれば、働いたなりのお金が入る。お金に困った月があったとしても、自分一人だけならなんとかしのげる。自分の生活スタイルを、自分の意思で選べることに気づいた私は、学校に行くよりもアルバイトや、大好きだったゲームにのめり込むことで自由を知るようになっていきました。
そして、それは将来の選択にも影響を及ぼします。あまりにゲームにのめり込んだため、「一生ゲームに関わって過ごせるなら本望だ!」と思うようになったのです。そこに歴史好きなことも加わって、就活では歴史ゲームを手掛けている光栄(現・コーエー)を第一志望に定めました。時は1991年。バブル真っ盛りで、内定が出ていない友達なんていません。受験すれば受かるだろうくらいの甘い気持ちで試験に臨みました。
しかし、安直な考えは即結果にあらわれました。光栄の入社試験はペーパーテストであっさり落選….周囲の友人がいくつも内定を持っている一方で、私だけ内定ゼロという危機的状況に陥りました。「どうしよう……今からどこかの会社の内定をもらうなんて無理だ….」と目の前が真っ暗になったことを今でも覚えています。
そんな時、ふと私の目に留まったのが部屋にあるPHP文庫でした。(PHP…..? 福岡でも就活セミナーをやると聞いたな……ここにかけるしかない!!!)急ぎPHPに電話して福岡のセミナーを申し込んだ私は、決死の覚悟でディスカッション試験に挑み、なんとかパスすることに成功しました。そしていよいよPHP京都本部での最終面接に向かうことになります。
大分から関西に向かうフェリーの中で私は、(どうすればPHPから自分を欲しいと思ってもらえるか?)を必死で考え抜きました。そこで思い至ったのが、面接官が聞きたいのは究極2つのことではないかという仮説です。
その2つとは……「なぜうちを志望したのか」「入社したあと、あなたは何がやれるのか(やりたいのか)?」。
そこで面接試験では、「PHP文庫の歴史ものが大好きだ」ということ、「PHPに入って歴史ものをつくりたい」の2点に絞って、伝えることに集中しました。(他のことは全く覚えていません)
数日後、PHPから合格の電話を受け取った私は、「本当によかった……」と胸をなでおろしました。自分の就職が遅れることは、後に続く兄妹たちに影響が出るということです。その心配から解放された時の安堵感と嬉しさは一生忘れることができません。
しかし、その安堵もつかの間、本当の試練はここから始まりました。
10月に行われた内定者の集まりでのことです。数十人いる同期を見渡してみると、地方大学出身者はほぼ私だけ。多くは東大、早稲田、慶応、中央、同志社、関西学院など有名国立私立大生です。「こんな優秀な人たちに交じって自分は本当にやっていけるんだろうか……」。喜びが不安に変わるのに、さほど時間はかかりませんでした。
そしてその不安は、入社後、見事的中することになります……
この続きはまた更新したら、お知らせしますね(^ ^)
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。心から感謝です!
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